Institut für soziale Dreigliederung
 
  
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社会三層化論(または社会有機体三分節論)とは何か

人類や社会は益々複雑になってきている。今日の危機は我々に現実に対処することができないことを示している。社会三層化と取り組むことは、一見矛盾するような、人間の全体を考慮することである。

logo例えば、フランス革命が掲げた自由・平等・友愛はこのような矛盾の一つである。だから、これらの理想はお互いを対立させがちである。だが、それぞれの理想はそれぞれの領域があると、実現することができ、お互いを豊かにする。なお、これらの領域は何なのか。

「平等」を法律分野と捉える人は割りに多いかもしれないが、精神生活を「自由」と捉え、文化だけでなく、教育も含めて考える人はあまりいないだろう。そして、経済生活には「自由」ではなく、「友愛」を検討するために、、今日の現実ではなく、国際化に隠された可能性に目を向ける必要がある。

もしかすると我々の社会は上下逆さまになっていて、それを元に戻さなければいけないかもしれない。そのような方面で活躍したい人は、社会三層化論(または社会有機体三分節論)によって有益な刺激を受けるだろう。

各人は少数である 精神生活における自由

文化は創造性、つまり、個人の自由のもとに、成り立っている。この分野で団体を個人よりも上位にすると両者とも影となってしまう。どのようにしたら個々人が文化的限界を超えていけるのであろうか。

もちろん、学校を卒業した後、まず海外に行くという方法もある。しかし、なぜ学校自体を「世界旅行」にできないのか。国営の傾向から多数文化から単一文化をする傾向がある。そして、経済分野において、一つの世界言語で妥協してしまう…

ただ、自分に挑戦したい人は自分をほかの文化を通じて反映させることも必要である。すると、言葉を完璧に話せなくても、言語により規定されることはない。

社会三層化の提案は、学校を公でなく民の主導により設営することである。これが、本当の意味での文化の多様化ではないだろうか。

各人は人類である経済における友愛

国際化は失われたチャンスであろうか。市場の偶然を期待する人は見誤る。いかにすれば、人々は真に生きる代価を得られるであろうか。

今日は、過剰生産が存在する一方で、餓死する人も大勢いるという矛盾がある。発展途上国の農民はヨーロッパやアメリカからの補助されている農作物の競争に耐えることができず、大都市のスラム街に住みついてしまう。ただ、支援活動や関税の撤廃は、問題を摩り替えるだけだ。それにこれらを受け入れた発展途上国の中には産業を失ってしまったものもある。

よりうまく生きられるのは、フェアトレードに参加するような、もはや、もう政府に依存する必要のなくなった農民たちである。こうした契約経済は、行き詰った市場経済を引き継いでいる。

各人は国民である 法律分野における平等

民主主義は奴隷制度を廃止した。だが、企業または株を売却することは、結果的に人々を売却することである。人ではなくより多くの仕事が合理化されるのに、どうやって資産を循環させたらいいのだろうか。

国有化は経営者の先導力を、民営化は社会的な責任を希薄にしてしまう。社会的な責任を考慮する経営者たちは社会三層化をと取り組むと、このジレンマからの脱却方法を見つけ出している。

自由な投資活動を望んでいながらも、将来的に会社の利益の最大化だけを考えるような投資家の犠牲にはなりたくない。また、企業運営能力の無い子供によって会社経営を悪化させてしまわれたくない。もはや会社を自ら経営できない時、会社を売却または遺族に遺贈する代わりに、最も適した後継者を指名し、会社を信託会社に譲渡する。

むかし、奴隷制度が一般的に認められていたにもかかわらず、自らの奴隷を自由にさせたことと同様に、このような経営者は社会的な良心をもっている。未だ民主主義の課題はむかしの奴隷制度撤廃と同じように、企業を売却できる制度を廃止することである。そうすればそのような非売却企業に対して打ち勝つことができると思う人たちはさらに失うことになる。

格人は掛け橋である極端の協力

各人は同時に少数、国民、および人類の全体の代表である。ただ、社会の組織はそれより簡単でなければならない。組織というものは三つの目的でなく、一つしか持つことができない。社会の組織の協力によってのみ社会は人間性をもつようになる。

なお、このような「一面性」をもっている社会の組織がばらばらになることを防ぐのは誰だろうか。これは人間なのだ。人間自体は掛け橋をつくるわけである。人間は国家の国民であるだけでなく、文化や経済分野でも活躍している。人間は社会を統一するものである。